「この薬が欲しい」よりも「この症状を治したい」、
「この糸が欲しい」よりも「この問題を解決したい」
世の中にはどれくらいの種類の糸があるのですか?
時々、特に繊維業界以外の方々からそのような質問を受けることがあります。
答えは、「数えきれない」です。
綿だとかポリエステルだとか、「素材」の種類であれば数えることもできますが、糸というなら同じ素材であっても太さだけでも違えば、使える用途も限定され、まったく違う糸になってしまいます。
更に、「綿×ポリエステル」のように2素材を合わせた糸も多く、3素材、4素材を合わせた糸も決して珍しいものではありません。
更に更に、例えばその糸に撚糸を入れるなら、撚糸回数次第でまた違う糸になってしまいますから、数えきれるわけがないのです。
私共のように様々な用途に販売している糸商でも、あるいは様々な用途に販売している糸商だからこそ「数えきれない」と言わざるを得ない糸の世界において、糸を生業にしているわけではない皆様がご自身の経験・知見から糸を選んでしまうと、実は最適ではない糸を選んでしまっていたということにもなりかねません。
「ポリエステルの167dt/2を黒に染めてほしい」
過日そのようなご要望をいただきました。
しかも、カラーブック展開している染糸ではなく、「黒にこだわりがあるので、見本を渡すからそれと同じ色にしてほしい」のだと。
ご要望自体はとてもシンプルなので、とりあえずお客様のところにお伺いし、黒の見本をお預かりしました。
しかし、いろいろと話を聞いてみると、今まではレーヨンを使用していた商品をポリエステルに変更したいのだけれど、普段ポリエステルを使うことはほとんどないと。
ではなぜ今回ポリエステルを使うことにしたのか?
理由は「色落ちしにくい商品を作るため」でした。
たしかにポリエステルを使えば、レーヨンと比較して、多くの条件下で「色落ちしにくい商品」を作ることはできます。
しかし、
私 「レーヨンのようにシルクっぽい光沢感が出なくなりますがよろしいですか?」
お客様 「せっかく黒にこだわっているのに、見え方があまりに変わるようでは困る」
私 「風合いが多少硬くなってもよろしいですか?」
お客様 「直接肌に触れる商品なので、程度にもよるが悩ましい」
結局この時は元々ご要望のポリエステルと共に、アセテートの試験糸もご用意することになりました。
アセテートはレーヨンと同じく天然由来の原料(主に木材パルプ)を使用した化学繊維です。
一般論的にはレーヨンより更に光沢が美しいとされており、染色にはポリエステルと同じく分散染料を使うので染色堅牢度はレーヨンを遥かに凌ぎます。
難点はレーヨンよりも強度が弱いこと。しかし、よくよく聞いてみるとご要望の167dt/2というのは単に今まで使用していたレーヨンがその太さだったというだけで、実際に使用する際にはお客様の工場内で2本引き揃えていたとおっしゃるので、今回の試験糸は167dt/2×2にしました。これなら強度の問題は解決できますし、お客様のお手間も省けます。
こう書くとアセテートにすると良いことばかりでポリエステルの試験糸は用意する必要もないようにも思えますが、問題は糸値が高くなってしまうことです。
染色堅牢度などの物性の改善に対して、必ずしもコストアップが認められるとは限りません。用途によっては「コストが高くなるなら要らない」という場合も多くあります。
結局のところ、お客様にとって「その改善がどれだけ必要か」で決まります。
今回の場合でしたら選択肢が3つ。
・見た目と風合いが変わるが、染色堅牢度が上がり、コストも安くなるポリエステル
・見た目と風合いはほぼ変わらず(あるいは良くなる)、染色堅牢度も上がるが、コストが高くなるアセテート
・染色堅牢度の改善は諦めてレーヨンのまま
経験則的に言えば、こうしたケースにおいては③になることが多いのですが、ご要望に100%適う糸がないのであれば、お客様にそれぞれのメリットとデメリットをしっかりご理解いただいた上で、出来る限り多くの選択肢をご提示するのが私共の仕事です。
そして、その選択肢の中から納得して選んでいただくためにも、机上の理屈ではなく、実際に見て触っていただくことが重要だと考えています。
私は糸商という仕事を「町医者」に例えることがあります。
原糸メーカーや紡績会社のように糸そのものを作るような大手術はできませんが、丁寧な問診のようにお客様の要望をお聞きして、改善したい問題を理解し、正しい対処法と正しいお薬を処方するのが私共の仕事です。
たしかに日常的には「頭が痛いから頭痛薬がほしい」というご相談がほとんどですが、糸商は「言われたものを売る」、「あるものを売る」だけの仕事ではありませんので、とりあえず頭が痛ければ、「何とかして」と言ってみるのが便利な糸商との付き合い方の一つだと思います。